公開: 2019年8月5日
更新: 2019年8月xx日
人間社会では、キリスト教だけでなく、仏教の世界でも、弱者に対する強者の思いやりが重視されています。仏教では慈悲の心です。キリスト教では博愛の精神です。このような考え方によって、これまでの人類は、強者の活動に制約を与え、弱者の活動を促進できるようにしてきました。近代ヨーロッパの貴族社会でも、高貴な者の義務が強調され、弱者には要求されない態度や行動を、強者には要求するしきたりがありました。これからの時代の社会では、そのような社会階層別の行動規範ではなく、すべての人々が従うべき規範が確立してゆくのではないでしょうか。これは、豊かな人が、貧しい人に対して、個人的な憐みの感情から、「施し物をする」と言う、これまでの社会の場当たり的な対応ではなく、豊かな人々が分担すべき負担と、貧しい人々が分担すべき負担は、負担の種類や性質は異なっても、社会に対する負担を担うという意味では、似たようなものだからです。例えば、経済的に豊かな人々は、経済的な負担を負って、社会のためにお金を出し、経済的には恵まれていない人々は、社会的な経済支援を受ける反面、社会的な活動に対して一定の労働力を提供するなどです。人工知能によって、従来のような仕事の場が減少するこれからの社会では、数多くの人々が生活のために必要な収入を得ることが難しくなるでしょう。そのため、社会の中での貧富の差は大きくなります。ですから、貧しい人々には、社会がその経済的支援を提供する必要が出てくるでしょう。その反面、貧しい人々には仕事がないため、自由な時間があります。その無自由な時間の一部分を、社会への奉仕の活動に投入することはできます。現在の社会で、NPOやNGOで活動している人々が、その非営利組織から給与をもらっているのと似たような関係です。